手放すべき誤解
人ははみな、他人が思うとおりに動いてくれないことで、悩みやストレスを抱えています。
「何度言っても、子供が勉強しない」
「部下がなかなか成果を出してくれない」
「どれだけ尽くしても、好きな人が振り向いてくれない」
などなど、枚挙にいとまがありません。
前回は、間違っていた自分の在り方を、山本五十六の言葉で考え直した経緯をお話ししました。
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そして、他人を思い通りに動かそうとすることを「諦めた」と申しました。「諦め」と書くと、他者とのコミュニケーションを断絶するような印象を持たれるかもしれませんが、決してそうではありません。
「諦め」という言葉がをネガティブな感じがするのならば、「手放す」と言い換えてもよいでしょう。
何を手放すのか。それは、自分自身の心の奥底に横たわっている大きな誤解です。
無意識にひそむ「常識」
大きな誤解とは、
「自分は、他人がやりたくないことでもさせることができる能力がある」
という考えです。
そして、その逆も同じように誤解しています。つまり、
「他人は、自分がやりたくないことでもさせることができる能力がある」
というものです。
これらの誤解が生み出すやっかいな問題は、
「お互いに、相手を思うように動かそうとして努力するのは当たり前のこと」
という「常識」を生み出してしまうことです。
この「常識」を持ち続ける限り、相手を動かそうとしてガミガミということを止めることはないでしょう。そのせいで、私たちはお互いを疲弊させていくのです。
いい気がしない
この「常識」をもとに人を動かそうとすると、一所懸命に「努力」するようになります。すなわち、𠮟りつけたり、怒鳴ったり、小言をいったりします。
でも、そんな「努力」をして相手は動いてくれたでしょうか?動いたとしても、仕方なく渋々やっていたはずです。
それは一時的に「従わせていた」だけなのです。叱ったりすることはマイナスの報酬で、そこから解放されたいがため従ったまでのことなのです。
この「常識」に縛られて、相手を従わせようとしつづけると、その人間関係は長くはもちません。なぜなら、「自分を否定され続けることに耐えられなくなる」からです。
他人にやりたくないことを無理にさせようとすると、「やりたくない自分」を非難されることになります。自分の価値判断を非難されて、気分がいいはずはありません。
そしてさらに、他人から自分を変えるように強制されているように感じるのです。今までの自分を否定され、これから先は、本来とは違う自分を押し付けられる予感を抱きます。
そんな「努力」をすればするほど、相手は気分を害して動いてくれなくなります。動いてくれないから、より一層の「努力」・・・と、ますます関係を悪化させていくのです。
立ち返るべき前提
相手を思うとおりに動かそうとする「常識」は、今まで述べたように無意味、かつ有害です。
そんな「常識」は、すぐにでも手放すべきです。そして、それまでの「努力」は今すぐやめましょう。そして、気づくべきです。
「人は自分の行動を、自分自身で決定している」
という、当たり前すぎる前提を。
人の行動は、他人に決められるものではありません。すべて自分自身の意思によって決定しています。
他人が動かしたように見えるのは、同調したり従ったりなど、単に影響を受けただけのことなのです。
この前提を受け入れて、「どう振る舞うかは相手の勝手」なのだと「諦めて」ください。そうすると、「何とかしなければ」と背負っていた重圧から解き放たれて、とても気分がラクになります。
ただその「諦め」は、無責任なものでは決してありません。決定の主体を相手に譲り、相手を尊重するということと同義となります。
相手を尊重するのはいいとして、「諦め」て「手放し」て、私たちはいったい何をすればいいのでしょう。
それは、「相手に向けられていたエネルギーの矛先を、自分自身に向ける」ということです。
つまり、
他人を動かすことができない。
しかし自分自身を動かすことはできる。
自分を動かすことにエネルギーを使いましょう。
ただそれだけのことです。シンプルすぎます。
しかしほとんどの人が、「自分を動かすとはどういうことなのか」「自分を動かして、相手がどうなるのか」が分からず途方に暮れているのが現状です。
続きは次回で。
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